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リスペクトにあふれた著作権侵害コンテンツについて

この記事は約5分ぐらいで読めます


昨日の記事の続きです。「建前上ルールを守っているが敬意のないもの」に対して「ルールは守っていないが敬意にあふれたもの」みたいな存在の話しです。

昨日バイラルメディア運営者やWebライター、ブロガーにも考えてほしい引用や紹介のこと – WEBCRE8.jpという記事を書きました。内容はざっくり言うと、引用という建前のルールを守っていることにして、リスペクトもない、単なる適当な紹介という名目の行為をするのはやめようという話しです。読むのに15分もかかるらしいですねw

この記事で私が問題視しているのはルールは建前上守っちゃいるけど敬意のないコンテンツのことですが、これに対して逆にルールは破ってるけど敬意の塊のようなコンテンツなんてものもあったりしますよね。そんな存在のことについて書きます。

2ちゃんまとめはシェアしづらい

ルールは完璧ではないためその距離のとり方は人それぞれ

ルールは完璧ではないためその距離のとり方は人それぞれ

例えば、2ちゃんまとめの中には特定の人のファン過ぎて、写真を載せるわ、キャプチャも貼るわ、でも本当に知ってほしくてその人のことをまとめたものがあったりします。それを読んでファンになる人もけっこういるはずですよね(そういうものの中には漫画の全ページをスキャンしたみたいなどうしようもないものも多いんでしょうけど)。ああいうのって明らかにまずいはずなんですけど…匿名投稿の著作権ロンダリングであやふやになってしまって、わりとライトにシェアされたりしてます。

もともと2ちゃんのスレみたいなグレーな存在っておおっぴらにはそれを見てることを言わないものだったんじゃないかと思うんですけど、それが匿名から半匿名(ハンドルネームやSNS)、実名で利用するインターネットに移行しつつあるなかで、今までならここだけの話しであった会話もインターネット上でおおっぴらにやるようになってしまっています

「お前あのスレ見た?」「見た見たちょーウケた」みたいな会話は本来その場限りのものであったのに、それがシームレスに、記録に残されながらなされてる状況になったわけです。正当な理由なく漫画のスクショを貼るのも楽しいのはわかるんですが、それと同じであまり勧められることではないですよね…。

そういうわけで、今判断しづらい時期だと思うので他の人が言及するのにまでとやかく言うつもりはないですが、私自身は現在Webで見かけたグレーなコンテンツにWebで言及することは基本的にないです。ですがもちろん、目には入ります

ルールと敬意の狭間で

ダメとは言いづらい、なかなか難しいコンテンツ

ダメとは言いづらい、なかなか難しいコンテンツ

で、実際ああいう風に「好きだから紹介したい!そのためには写真とか作品の一部を載せるのが一番でしょ?」みたいな気持ちはわからないでもなく、複雑です。たいてい敬意を持った行為のはずですし、機械的に右から左へとコンテンツを扱う人よりは断然意義のあることをしていると思えるわけです。でも、それはルールでは許されてませんよね。ルールを破っているものを、社会のなかで支持するのは難しいです。

何度もブログ内で述べていますが、私はだからこそライセンスの宣言というものを支持したいと思っています。例えば世の中の芸能事務所が全ての所属芸能人の写真を、または映画会社が作品のキャプチャーをCC BY-NC-NDで、そして更に言うなら芸人さんはCC BY-NCあたりで(コラ歓迎みたいな)、新人はCC BY、という感じで公開したら色々面白くなりそうな気がするとか夢想したりもしないでもないですねw 実際は営利的な事情なんかが絡んで無理でしょうけど…。

あ、でもつい昨日任天堂、ニコニコ動画のプレイ動画を公認 二次創作を許諾というニュースがありましたし、あながち遠くない未来あり得ないことではないのかもですね。写真が自由に使える芸能事務所、とかキャプチャー自由に使えるテレビ局、とかアツいと思いません?w

とにかく、多くの人が著作物には著作物ごとに著作権があり、人には肖像権があることを認識して許可されているコンテンツがあるって認識していて、そのうえで私的利用公衆の利用がはっきり線引きされている状況というのが理想だと思うんですけど、そんな社会にはならない気もしてます。その辺は学校教育とかに著作権のことが盛り込まれない限り無理でしょうね><

まとめ

ルールは破らないに越したことはないです。ですがルールというもの自体は公平さを保つために存在するもので、敬意のない行動を制限するために作られているものではないのでしょう。この差分の狭間に存在する、リスペクトから出る行為の意義は個人的にたたえたい存在だと思いもします。

それにルールを作る場合、著作者ごとの志向やそのときの気分で許諾の範囲を変えるというのは法律というレベルのルールでは無理がありますし、そうしたスキマはライセンス、あるいは個別の許諾という形でこまかく解決していくしかないのでしょう。

著作権侵害が親告罪であることはそうした発信者に委ねる考え方を形にしたものだと思うのですけど…と、これ以上は更に長くなるのでこの辺で!w